ここ数年、「ありのままの自分」がいかにも素晴らしい。と思わせるような風潮に感じる。 そもそもありのままって何のことだ? と俺はよく思うし、「ありのままって何?」と聞いて満足いく答えを聞いたことはない。 恐らく世の中のニュアンスだと、 ・好きなことをやること ・我慢しないこと ・自由にやること 要するに、【自分の枠を壊せ】 ということなのか? と捉えてしまう。 たしかに、自分の制限が外れて解放され救われた人を少なからず観てきた。 その事を否定するつもりはない。 だが、それはベースがある人だけに可能だ。 と思っている。 そのベースこそが本当の意味での【ありのままの自分】だと捉えている。 ここでいうベースは言語化できるものではないが、強いて言うなら、【元来備わっているハズの個性。】 と表現しよう。この個性は人格の事ではない。 その方の生まれ持った気質でもあり、魂の蓄積の結晶。とでも言うべきか。 それは7歳頃までに発達し完成するようだ。昔の子どもは7歳までに亡くなった子は神の子と言われていたようだ。 さて、ここで問題がある、、、 それは先程ベースと人格とは別物だ。と述べた事だ。 7歳まで期間に親の躾や、トラウマなどで人格が強く育ち、ベースが発達していない人が多い(特に都会育ちの人に)。 つまり、何が言いたいかと言うと ベースが無いのに枠を壊してしまうと何も残らない。 と言うことだ。 密教や神秘主義的な修業に、「人格を殺せ」という言葉が出てくるが、これは弟子のベースが一定のレベルまで育っていることを師匠が確認して、そこから人格を殺す(破壊)ということだ。 一般的に流行っている多くの風習(瞑想、呼吸法等)はエッセンスの抜けたもぬけの殻が殆どで、このベースの存在すら知らずにやってるからややこしいことが起こっている。 つまり、ありのままの自分になる前には、ベースの確立という根気のいる作業がある。 ん??? どうやってベースを作るかだって??? それは一言で解決する。 【超努力】 この超努力とはなんぞや? それは敢えて言うなら 目的を持たず、利益を求めずただやる。 これを例を持って説明しよう。 例) 寒い雨の中家に帰るために40kmの道のりを歩いてきた。家に着いたら暖かいお風呂に、ほっぺの落ちるようなご馳走がたんまりとある。だがそこで、もう2kmほど寒い雨の中を目的なくただ歩く。 これが超努力だ。 40kmの道を歩かせたのは、家に帰れば風呂やご馳走といった報酬があるからだ。だが、追加の2kmには全く報酬も無ければ意味すらない。 この追加の2km(超努力)こそが人の本質を発達させる為の大きな手段なのだ。 都会育ちの人にベースが弱い人が多い理由もこれにある。 都会は常に知性を働かせていなければならず、知性からすれば到底理解ができない超努力をする機会がほぼ無いからだ。 ここで勘違いをしてほしくないのが、人格を否定しているわけではない。 人格も必要だし、ベースも必要。 要するにどちらも発達させる必要があるという事だ。 このベースが発達した状態で人格を使えるようになる事が理想的。 ベースが主体となり、知性、感情、肉体を自在に操れる事が道を歩く。 という事だと考えている。
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